+放課後+

学校という檻から出るために、わたしは毎日我慢を重ねます。

どんなに罵声が降りかかろうとも、どんなに惨めな思いをしようとも。

途中棄権は許されないのです。

わたしはわたしを信じることができません。

1度途中棄権をしたら、それは、永遠にここに戻れないことを意味しています。

張詰めた糸は、1度緩めたら、もう元には戻らないのです。



ここは、誰もいない空間。普段は、放課後のクラブ活動の声が遠くから聞こえ、

陽射しはあたたかく、とても居心地がいい場所です。

わたしは、そこにあるベンチに、そっと腰をかけました。



空は薄く曇っています。

いつも一緒に帰る由理(ゆり)と、喧嘩したことを思い出しました。

喧嘩という表現は、少しおかしいかもしれません。

だって、昨日の帰り道、わたしと由理は、会話をしなかったのですから。

一言も会話をしないことはよくあります。

そんな日の翌日は、一般で言う、「喧嘩した日の翌日」のようになります。

わたしは由理のことを、親友だと思っています。

向こうがどう思っているのかはわかりません。

でも、少なくとも友達だとは思ってくれているでしょう。

この場所は、由理との、放課後の待ち合わせ場所です。

今日は、待っても待っても、由理は来るはずがありません。

だって、「喧嘩した日の翌日」は、普通お互い口をきかないでしょう。

それに、わたし達の「喧嘩した日の翌々日」は、また元に戻る決まりになっていますから、

これは当たり前なのです。

わたしは、この場所から、一歩も動けずにいました。



・・・雨が、降ってきた。



雨粒は、わたしの頬を伝い、流れ落ちます。

この雨の行く先は、いったいどこの世界なのでしょうか。

呆然とするわたしを、雨は濡らし続けました。

雨は叩きつけるようになり、わたしは帰る気力をすべて失ってしまいました。



わたしは、自分のことを、変わった人間だとは認識していません。

わたしは普通を愛する人間です。

だから、こうして、雨に打たれるのです。

すべての罪が、浄化されることを祈って。



こんなわたしを理解し、開いた手首の傷を一瞥して

「あんたはバカね。自分で処置しなさいよ」と笑った由理を、

わたしは心から偉大だと思いました。

あれは、いつの放課後だったでしょうか。

時は流れ、美しかった思い出は、徐々に色あせてゆきます。

この記憶も、いつか消えてしまうのでしょうか。

ここにカッターかカミソリがあれば、刻み付けて残せるのでしょうか。

そんなわたしの甘えた考えに、あなたはまた

「バカね。」と笑ってくれるでしょうか。



ふと気がついたら、雨にまぎれて、わたしの目からも、水が伝い落ちていました。



翌々日になれば元に戻るという、この「信頼」は、いったいいつ生まれたのでしょう。

わたしは信じていません。

自分自身を、信じることができません。

あなたがこの信頼を作ってくれていなかったなら、

わたしは他人を、自分と同じように、信じることができないでいたことでしょう。

あなたを失ってしまったらきっと、わたしには何も残らないというのに。

そんなあなたと、一時的にまったく別世界のものになっているというのにわたしは、

雨に打たれて、自分のためだけに祈っているのです。

愚かな自分に酔っているわけではありません。

それでも涙は、後から後から流れ、雨に溶けてゆくのでした。



わたしは普通でいたいのに。

周りはわたしが、漂うことを禁じます。

ただ漂っていれば、傷つくこともないのに。

周りはわたしを、置き去りにはしてくれません。



絶望するわたしの後ろから、人の気配がしました。

振り向くと、大人の男の人が、立っていました。

わたしはここが学校であるということを思い出し、この大人の男の人が、

先生であると気付きました。

「どうした?なにしてるんだ?」

雨のおかげで、わたしが泣いていたことに、先生は気付きません。

制服が濡れています。これは、もう、ずぶ濡れ、という状態です。

先生はわたしを、保健室へ連れて行きました。



保健の先生はびっくりして、わたしを出入り口まで、小走りで迎えました。

「どうしたの?!まぁまぁこんなに濡れて!」

男の先生が、事情を説明しようとしますが、そこで、わたしに理由を訊かなくては

はじまらないという事にやっと気付き、とりあえず着替えをするように言われました。

保健室で借りたジャージは、わたしには少し大きいようで、なぜか居心地の悪さを覚えました。

保健の先生は、やさしくわたしに声をかけます。

「1人でベンチに座っていたんですってね。びっくりしたわ。

雨が降ってきても、気付かなかったなんて。居眠りしちゃったのかな?」

こんなにやさしい言葉をもった人に、わたしは今まで、出会ったことがあったでしょうか。

先ほどまで流していたものとは違った、意味不明の涙が、こぼれました。

いじめの一部始終を話し終えると、わたしは「ひっく、ひっく、」と、情けなくのどを詰まらせて

泣き続けました。



母親の運転する車に乗り、家に帰ったわたしは、制服と一緒にずぶ濡れになった

携帯電話の液晶画面をみつめました。どうやら、無事なようです。

画面の片隅には、未読メールの存在を示すアイコンが、表示されています。

由理からでした。

携帯電話に付いた水滴を拭き取って、未読メールを開きました。

「明日古典のノート貸して」



わたしは思わず、笑みをこぼしました。

わたしに関わる人が、わたしと常に繋がっているわけがないのです。

わたしの世界でなにが起こっていようとも、わたしと関わる人には、

まったく関係なく、その人の世界は進んでゆくのです。



わたしが信じているものは、他人から見れば、ただの偽りであって。

信じるわたしにだけ、雨上がりの美しい虹に見えるのです。



わたしは由理のメールに「わかった」とだけ返事を返すと、

携帯電話をベッドに放り投げて、シャワーを浴びるため、お風呂のある

1階へと、階段を駆け下りてゆきました。